「何もかも失って、やっと私になれた」──足すほど遠ざかってしまう“本当の自分”
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「何もかも失って、やっと私になれた」──足すほど遠ざかってしまう“本当の自分”
「何もかも失ったことでやっと本当の自分になれたの」
J.K.ローリングの言葉です。
この言葉、静かだけど深いところに刺さるなと思うんですよね。
なぜならこれって、
「いろんなものを身につけたおかげで本当の自分になれたの」
じゃないからです。
■ 足すことで「私」になろうとする私たち
多くの人は、どこかで思っています。
「何かが足りないんじゃないか」
だから外から足そうとする。
持ち物。
資格。
肩書き。
学歴。
資産。
評価。
権力。
6パックや頭の毛は足して、脂肪やムダ毛は剥ぎ取って。
こうして「足りない‼️」という渇望は、止まるところを知らない。
これは悪いとかダメとかじゃなくて、この世的な人間としてすごく自然な動きでもあります。
だから、正直なところ飽きるまでやるしかない、という側面もある。
でも、どれだけ足しても、ふと残るフィーリングがあるんです。
「で、本当の私はどこ?」
■ 自分じゃないものまで「私」になっていく
自己同一化って、ほんとうに巧妙です。
いつの間にか、こんなところまで広がります。
旦那の職業。
子どもの学歴。
家族の肩書き。
本来それは「私」ではなく、関係性や状況の一部でしかないのに、
気づくと、まるでそれが「私そのもの」みたいになっている。
どこまで自分じゃないものを、自分だと思い込んで生きていくのか。
責めてるんじゃなくて、ただ、ただ、気づきポイントだなと思うんです。
■ 失うことで、剥がれ落ちるものがある
ローリングの言葉が示しているのは、
「失うことが正しい」という話ではありません。
失ったことで、同一化していたものが剥がれ落ちた。
役割も、評価も、物語も、支えにしていたイメージも外れたとき、
それでもなお、在り続けている「私」に気づく。
その体験が、「やっと本当の自分になれた」なんだと思います。
■ 足さなくても、失わなくてもいい
だからといって、
「全部手放さなきゃいけない」
「失わないと本当の自分になれない」
という話でもありません。
自分マスター的に言うなら、
足すか、失うか、ではなく、同一化を外す。
持っていてもいい。
得ていてもいい。
でも、それを「私そのもの」だと思うことをやめる。
■ 何も足さなくても、すでに在る
肩書きがあっても、なくても。
評価があっても、なくても。
うまくいっていても、いなくても。
その奥に、最初から、そして今も、在り続けている私がいる。
それに気づくと、
「もっと別の何かにならなきゃ!」
という焦りは、少しずつ緩んでいきます。
足す人生から、還る人生へ。
それが、自分マスターの視点です。
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