「比べるクセ」の正体とは? ー 劣等感と優越感に隠れたエゴのしくみ
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「比べるクセ」の正体とは? ー 劣等感と優越感に隠れたエゴのしくみ
「私なんて…」「あの人はすごいな…」「もっと頑張らなきゃ」
気づけば、他人と自分を比べて落ち込んだり、
焦ってしまったり、優越感に浸ってみたり…。
そんなふうに“比較するクセ”って、
いったいどこから来るのでしょうか?
この記事では、自分マスターの視点から、
【比較の背後にあるエゴの仕組み】と、
そこから抜けて自由になるための
“気づいておく”在り方をお伝えします。
比較してしまうのは、人間のクセ。でも…
私たちは無意識に、日々のあらゆる場面で
常に誰かと自分とを比べてしまっています。
- SNSで誰かの投稿を見たとき
- 成果や能力の違いを感じたとき
- つい相手にマウントを取りたくなったとき
- 逆に「自分なんて…」と落ち込んだとき
でもそれって、実は
すべて同じ“場所”から出てきています。
それが、「【特別であろうとするエゴ】」です。
「すごくなりたい」も「どうせ私なんて」も、同じエゴの裏表
比較の根底にあるのは、
「特別でありたい」という欲求です。
人より勝っていたい。
または、負けることで“私は他とは違う”と主張したい。
「優越感」はもちろんですが、「劣等感」も
その特別感の別バージョンの表現なのです。
「私はダメ」「どうせ無理」
…一見すると謙虚なように見えますが、
実は“私は例外”という特別視が
裏に隠れていることも多いのです。
この“特別でありたい”という構造が、
【エゴにエネルギーを与え続ける燃料】になっています。
なぜエゴは特別になりたがるのか?
それは、Being(在る)という
本質的な自分からズレているからです。
ニュートラルなBeingの状態では、
そもそも誰かと比べたり、自分を
良し悪しで測ったりする必要がありません。
でも、私たちは本質からズレてしまうと、
「自分の価値を何かで証明しなければならない」
そのような思い込みが始まります。
そのとき、エゴはこう囁きます:
- 「もっと結果を出さないと価値がない」
- 「あの人のようになれば安心できる」
- 「私はどうせ…って言っておけば傷つかない」
そして、他人との比較というゲームが始まるのです。
比較の世界から抜け出す唯一の道
それは、【“気づいておくこと”】です。
「また比べてるな」
「またすごくなろうとしてるな」
「また“私なんて”で守ろうとしてるな」
そうやって、自分の内側で起こっていることに
ただ気づいて、見ていること。
これが、【観照*の意識】です。
*観照とは:「気づいておく意識として在ること」。
感情や思考に巻き込まれるのではなく、それに“気づいている”側=Beingで在ることを指します。
比較が起きてもいいんです。
でも、それに飲み込まれず、
「気づいている私」に還れるかどうか
それが鍵となります。
そして、それこそが
「他人との比較」から自由になる
そのための、たったひとつの道なのです。
自分の満ちたところに還る
他人と比べたくなるのも、すごくなりたくなるのも、
全部「私」が満たされていないと錯覚しているときに起きるもの。
でも本当は、私たちは最初からずっと【満ちている存在】です。
そこに気づいて還るために、観照の意識を取り戻していく──
それが「自分マスター」の在り方です。
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