エゴはその人じゃない。だから、赦すしかない。

エゴはその人じゃない。だから、赦すしかない。

「なんなのこの人…」

 

つい、誰かの言動に、

ムカッとしたこと
がっかりしたこと

ありませんか?

でも、それって実は、
エゴマインドに対しての
反応
なのかもしれません。

■ エゴは本質とは関係ない“乗っ取り犯”

人間には本来の“わたし”がいます。

けれど多くの場合、
そこにエゴマインドと呼ばれる
思考のプログラムがくっついて、
本来の自分を“乗っ取って”います。

つまり、その人自身ではなく、
その人に憑依しているようなもの。

エゴと同一化しているとき、

自分が何をしているのか、
なぜそのように感じるのか、

人は分からなくなっています。

そんな時、あのイエスの祈りを思い出します。

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか、自分でわからないのです」

 

これは“人間”を見ての祈りではなく、
人間を乗っ取っているエゴマインド

その働きを見抜いての
祈りだったのかもしれません。

■ エゴに乗っ取られていると、人は人を裁きたくなる

人は自分の中に
エゴマインドがあると、

他人のエゴマインドを見て
強く反応してしまう。

イライラ、モヤモヤ、
怒り、失望、軽蔑……。

でもそれって、
本来のあなたの感覚では
ないのかもしれません。

誰かを“裁きたくなる”とき、
自分の中の何かを抑圧している

そんな可能性が潜んでいます。

■ 自分の中のエゴも、同じように裁いていない?

私たちが他人のエゴに敏感なとき、
たいていは自分の中のエゴにも
厳しい目を向けています。

「またやっちゃった…」
「こんな自分、最低だ」
「ダメだ、変わらなきゃ」

こうやって、自分を責めて、
首を絞めて、苦しくなる。

さらにややこしいのは、

もう私はそれを超えた

そんなふうに思っているときに
この裁きを発動することがあります。

たとえば──

  • 過去の自分がやっていたことを、
    今の自分が強く否定している
  • 「あんな人」と言いながら、
    その人がかつての自分にそっくり
  • 自分はすでに「いい人になった」から、
    もうあんなことはしないと思っている

このとき本人はすでに
それを超えたつもり
でいる

けれど、実際には
その過去の自分を
受け容れていないんですね。

つまり、自分の中の
統合されていない部分を切り離して、

「もう私はあれではない」

と、信じ込んでいる状態。

これが自己欺瞞の構造です。

でも、切り離したものは
決して消えることはなく、

むしろ、分かりやすく
外側に現れてきます。

もしも、いま、
「最低な人」と感じる人が
自分の目の前に現れたとき、

それはあなたが過去に拒絶した
受け容れることができていない部分を、
見せてくれているのかもしれません。

そこに気づけたとき、
自分を責めるのでも、
他人を否定するのでもなく、

【ただ観て、赦す】という
新たな選択が生まれます。

■ “赦す”とは、真実を観ること

【赦す】というのは、
許可することではありません。

悪いことを
正当化することでもありません。

その人の本質と、
乗っ取っているエゴを
区別して見る
こと。

自分の中にあるエゴも、
他人に見るエゴも、
スペースを持って見つめてみる。

裁かず、責めず、ジャッジしない。

それだけで、
見え方が変わっていきます。

■ エゴに乗っ取られない生き方へ

「自分マスター講座」とは、
こうしたエゴとの距離の取り方や、
観照する意識を育む実践です。

本質の“わたし”として、
今ここを生きていくための
シンプルだけど、奥の深い道。

もし、あなたの世界の誰かを
裁きたくなっていることに気づいたら、

それは、あなたのマスターが
目覚めようとしているサインです。